小説にしか書けないこと

 ところで、桐山の『聖なる夜聖なる穴』の最後の部分と陣野さんの小説デビュー作『泥海』(2018年、河出書房新社)の冒頭の部分は同じですよね? 「世界が見えてきた。穴ぼこの向こうに、空がはっきりと浮かんでいる。俺は武器に火を点す……」という強烈な一節です。こんなこと聞いちゃっていいかわかりませんが、なぜこうした構成になさったのでしょう。

陣野 そういうことは立教大学の講義「小説創作論」でも話しているんで大丈夫です(笑)。『テロルの伝説』は2016年に出ているんですけど、フランスでシャルリー・エブド事件が起きたのは2015年。つまり、桐山さんの本を書いている最中に事件が起きて、そのことは自分の中で何とかしなきゃと思っていて、その結果、小説を書いた。小説にしか書けないことに突き当たっていたんです。『泥海』はシャルリー・エブド事件の2人の実行犯を主人公にしているので、フランスで出すと焚書にされるかもしれないんだけど、彼らが捕まって射殺された後に警察が公開した押収品の資料にはハードディスクに何が入っていたかということまで一覧表があって、中にマリカの「光の兵士たち」がダウンロードして保存されていたことがわかっているんです。

 「光の兵士たち」は実在するんですね。

陣野 僕はそれを読んだんです。すごく奇妙なテキストで、半分ぐらいは神に感謝という言葉がずっと書いてあるんだけど、残りの部分を取り出して考えると、ものすごく魅力的なテキストに読める。だからある意味、『泥海』はマリカが持っていた魅力的なテキストに勝つにはどうしたらいいかという本なんです。統一教会じゃないけど、人をオルグする文章の魅力というのはやっぱりあって、その魅力に2人はオルグされて殺人犯になっていったんだけれど、そこで踏みとどまるにはどうしたらいいかを日本人の登場人物をつくって考えようとしたんです。フェイクニュースみたいなものがすごく魅力的に見えることってあるじゃないですか。そういうのに勝つフィクションの力みたいなものを考えたかった。ほとんど晩年のウンベルト・エーコのテーマ(偽書に対する物語の力)みたいな話なんだけど。ただ、実行犯の2人がマリカの文章を読んで本当に影響を受けたかどうかは、結局わからないから、そこはフィクションでしかできないかな、と。

 歴史的な出来事をどのようにフィクション化するかというところで、桐山がやったのと同じことをやろうとしたわけですね。実際に起こったことだけが全てではなくて、その出来事のすぐ隣に潜在的な可能性として、ポテンシャルとして存在していた〈あったかもしれない現在〉を現出させるために登場人物を造形する、という。

陣野 そうですね。ひょっとすると、そうならなかったかもしれないんだけど、そうなってしまった現実の横にどういうものがあったのか。それはフィクションで語るしかない。
 だから、桐山さんの本を書かなかったら、たぶんこの小説はできていないんです。『泥海』の後、実は小説を2つ書いているんです。そのうちひとつはボツになったんだけど、『泥海』がきちんと形になったのは、桐山さんが書かせてくれたからだと思いました。そういう小説でないと書けないんだな、と。

 桐山作品と陣野作品の関係でいえば、『泥海』はご出身の諫早が重要なモチーフになっていますが、この諫早の「泥海」は、桐山が偏愛したグアテマラの作家ミゲル・A・アストゥリアスの『グアテマラ伝説集』の中の「腐植土の海」とつながっていますよね。もっと言うと『泥海』の主人公は阿佐ヶ谷に住んでいて、桐山の家も阿佐ヶ谷にある。「世界が見えてきた、穴ぼこの向こうに」という一節だけでなく、桐山と結びつくいろいろな記号が散りばめられています。

陣野 そうですね。『泥海』と『テロルの伝説』を2冊とも読んだ人は阿佐ヶ谷の釣り堀に行きたい気持ちになるでしょう。

 はい、なりました(笑)。『テロルの伝説』には桐山を「孤立」させてきた文芸批評界に対する陣野さんの憤りが漲っていますが、同時にじつは意外な形での「後継者」がいたのではないかとも語っておられる。桐山が持ちえた問題は、同時代かその後の時代の中で、予想もつかない形で「後継」されたのではないか、と。この「後継」を意識して書いたということでしょうか。

陣野 後継者たらんというのは言い過ぎなんですけど、『テロルの伝説』を書き終える頃には自分で1回書いてみようと思っていたし、自分なりにやってみよう、と。そういう政治的な小説を書く人も少ないでしょう、星野智幸さんや木村友祐さんみたいな例外を除いて。

 シャルリー・エブドをとりあげた理由は、偶然これを書いている時に事件が起こったからだけですか。

陣野 それもありますけど、シャルリー・エブドの犯人2人は、ラップとサッカーしかなかったんです。そこは共感する部分はあります。どうやって生きていくんだと言われた時に、ラップとサッカーで身を立てようと思って、その両方が閉ざされると、やっぱりもう道はない。

 サッカーが好きな少年がそれを諦めざるをえなくなって、プーマのスパイクを捨ててラップに入っていく。そこでもやはりうまくいかなくて、最終的に暴力的な世界に足を踏み入れてしまう。この人物造形は、陣野さんがサッカーとラップを扱ってこられたからでしょうか。

陣野 小説でそういう人をつくったという側面もありますけど、調べてみると彼らは実際そういう人たちだったんです。弟の方はサッカーの才能もあったみたいなんだけど、そうはうまくはいかないから、そうこうしているうちにどんどん刑務所で感化された、という話です。