同時代の日本文学について

福嶋 他方、日本文学の現況はどう思われますか。例えば、岡田利規さんや村田沙耶香さんのようなロスジェネの作家がいますね。彼らの主人公は家族もつくれず、社会にも溶け込めない。いわば屈折した個人主義の文学です。小野さんの場合はそれとは違って、家族があり土地がある世界を再構築されていると思うのですが。

小野 僕は職業柄、海外の作品を読むことが多いので、最近の日本の文学作品はそこまでちゃんと読んでいないんです。

福嶋 もう少し食い下がりますと、小野さんと世代の近い阿部和重さんや星野智幸さんはいわばガルシア=マルケスの日本版のようなことをそれぞれにやっているわけで、小野さんの作風と近いところもあると思うんです。しかし、旧来的な意味での文学的なパラダイムをある程度背負っているのはだいたいその世代ぐらいまでで、ロスジェネ以降はもうパラダイムが壊れている気もするんですね。

小野 僕の文学的なパラダイムというか、文学的モデルはかなり古いですよ。ときどき本気で19世紀的な小説っていいな、自分も書いてみたいなあと思ってしまいます。シンプルに物語の醍醐味だけで読ませる書き方は面白い。とはいえ、たとえばスポーツで、ある戦術があるときまでは使えるけれども、それ以降はまったく使えなくなってしまうことがありますよね。それと同じで、現代において19世紀的な書き方を試みるのは、かなり難しいのかなとは思います。

福嶋 全知全能の語り手のいる全体小説ですね。

小野 海外文学と言っても英語とフランス語の本当にごく限られたものしか知りませんが、すぐれた作品には、やはり手法的・形式的なチャレンジが常にあるようにと感じます。いわゆるリテラリー・フィクション(純文学)の野心的な書き手で、純粋に、単線的に、物語を語ることをやっている人はほとんどいない気がしますね。

福嶋 『獅子渡り鼻』は形式的な実験もなされていて、20世紀のモダニズムの延長線上にある作品でしょう。結局、モダニズムとは時間とか空間とか言語の拘束を一回取り去って、文学をリプログラミングしようとする作業だったと思います。逆に言うと、それは言語に無理をさせることでもあるので難解にもなっていく。しかし、モダニストはそういう無理をして小説を脱皮させたわけですね。『獅子渡り鼻』は人称の使い方にしても非常に工夫があって、20世紀の実験を変化球的に受け継ごうとした作品に思えます。

小野 やや言葉に負荷をかけながら、どんな作品が生まれるかを見てみたいというのが、僕自身の関心として最初からあります。結局、小説は言葉を使って作品をつくるしかないので、その言葉というマテリアルが持つポテンシャルをどれだけ引き出せるかに興味があるんです。

福嶋 小野さんの翻訳されたグリッサンの『多様なるものの詩学序説』([1996]2007、以文社)で引用されていたと思いますが、『クレオール礼賛』(ラファエル・コンフィアン、ジャン・ベルナベ、パトリック・シャモワゾー、1997、平凡社)に「クレオールで書くことは、言葉に無理をさせることだ」というような宣言があるわけですね。単に雑種的な方言で書くだけだとエキゾチシズムに陥ってしまう。それを突破したところで、文学的な実験をなさねばならない、と。

小野 そうやって言語に負荷をかけた小説が面白いと思う人もいれば、言語に負荷をかけた小説は読めない人もいるでしょう。むしろ、読めない人のほうが増えてきているかもしれない。そうすると、言語に負荷をかけるような書き方の人たちは珍獣として何とか生息していくしかない。

福嶋 ただ、ジョイスらのモダニズムにしても、ガルシア=マルケスらのラテンアメリカ文学ブームにしても、だいたい20年も続きませんよね。運動はいつか終わる。終わったものをどういうやり方で変形的に引き継ぐかが、ポイントではないでしょうか。日本にはラテンアメリカの豊穣な文学を引き継ごうとする作家たちがいた。彼らがこれからどうなっていくのかは気にはなります。それに、小野さんの世代以降は、そもそも外国文学の影響を強く受けた作家自体が少ないのです。

小野 面白いですよね。それがいいことなのか悪いことなのか、まったくわかりませんが、そんなふうに外国文学の影響をあまり受けることなく、それまでの小説の書き方が全部チャラになったところ、ゼロ地点から書き始めるというのはチャレンジングですよね。

福嶋 今となってしまえば、そう書くしかないのでしょう。ただ、基本的に何のパラダイムもないまま無風状態で漂っているのが、現在の日本文学の状況だと思いますね。