21世紀の世界の文学

福嶋 小野さんはアキール・シャルマをはじめ現代の若い作家も翻訳されていますが、21世紀の世界文学はどういう方向に行くとお考えでしょうか。

小野 常にあらゆる形式で多様なものが書かれ続けているとは思いますが、小説はかつてよりは読まれなくなっている気はしますね。マイナー化したというか。それでも、どうも文学というものはなくならなくてもいい、あってもいいもののようだ、という雰囲気はあると思うので、書き手はますます自由にいろんなことに挑戦しやすくなるんじゃないでしょうか。

福嶋 それとともに、20世紀は文学の大衆化がかつてなく進んだ時代ですね。

小野 はい。大衆的な作品はもちろん、これからも書かれていくでしょうが、今後は、ある意味で文学というジャンルがマイナー化することによって、文学がより自由になれるのではないかと。世界のいろいろな地域で、恐らく自分の書きたい本能や欲求に忠実に、それぞれの言語に負荷をかけるといったやり方で、面白い作品がさらに書かれていくのではないでしょうか。そういう作品は、そもそも大衆化しないでしょうから、読み手としては、それをキャッチできるようになりたいですね。批評はますます重要になるでしょう。ある作品があって、それがなぜ重要なのか、どこが興味深いのかがしっかりと語られていれば、それを読もうとなるはずですから。

福嶋 例えばクッツェーやミシェル・ウエルベックは20世紀の文学的実験は一段落したということで、シンプルな文体で、しかし奥行きのあることを言う書き方になっていますね。特にウエルベックの場合は、19世紀のバルザックのような大きな構えを、20世紀の実験を踏まえつつ取り入れようとしているんじゃないでしょうか。彼らのアプローチは、モダニズム以降の文学のひとつのあり方として理解できます。

小野 カズオ・イシグロみたいな書き手もいますよね。

福嶋 ええ。もちろん、いろんな作家がいますから一口には言えませんが。

小野 いろんな書き方があることも、文学を批評的な意識をもって読んでいる人には見えやすくなっているけれど、そうじゃない人には不透明なままかもしれませんね。書き方の多様性を以前より感じやすくなったらいいなと思います。僕も英語やフランス語に訳された作品になるべくアンテナを向けるように努めています。そうすると、僕が全然知らなかった地域でこんな作品が書かれているのかと、新しい発見があるんです。

アメリカ文学の傾向

福嶋 素人として見ていると、アメリカでは創作のシステム化が進んでいるように感じます。クリエイティブ・ライティングを出た人が作家になる。そうすると、ある程度まとまりがよくて、きっちりした作品が書かれるのでしょうが、同時にある種のオブセッションは消えていく気がします。

小野 アメリカのわりと尖ったセンスをもつ書店は、外国文学を読みたがるんですよね。ジャンルを問わず、アメリカにおける翻訳書の割合は、全体の出版点数のおおよそ3%ぐらいらしいです。翻訳された文学書となると、もっとはるかに少なくなります。にもかかわらず、そういった書店や書店員は、海外文学を推している。アメリカの現代文学の多くがクリエイティブ・ライティング的なシステムから生まれているのだとしたら、そういうシステムによって生まれるものとはちがう出自を持つ文学に対する健全な興味もちゃんとあるということですよね。

福嶋 トマス・ピンチョンみたいに、めちゃくちゃにオブセッシブな妄想でドライブしていくという作品は……。

小野 ああいう巨大な作家はもうあまりないですよね。

福嶋 明らかに減りましたよね。わりとみんな優等生的にきれいに書くけど、そこまで心に残らない。

小野 奇想系の作家が増えましたよね。でも、やっぱりそれだけだと飽きてしまうんです。風変わりなアイデアだけでなくプラス何か、それこそパトスとか、ドロドロとした何か、それでも書かざるを得ないものがないと、読み続けたいとはならない。奇想系のショートストーリーが増えていると思いますが、それがずっと続くかどうかは……。

福嶋 ちょっと苦しいと思いますね。

小野 一方で、最近読んだ、アメリカのエルナン・ディアスという作家が書いたIn the Distanceという作品は、ピュリツァー賞の最終候補になり、受賞はできなかったけれど、すばらしかったです。西部劇の批評的な書き直しのような作品なのですが、ディアスにはボルヘスについての本もあります。

福嶋 それはまた興味深いですね。

小野 しかも、小さいときにお父さんの仕事でストックホルムに住んでいるから、スウェーデン語ができるらしいんですよ。主人公はスウェーデンから来た移民です。ニューヨークに行くはずが、着いたところはサン・フランシスコ。そこから途中で離ればなれになった兄を探して、ニューヨークを目指す。だから「西へ」じゃなくて「東へ」なんですよ。

福嶋 それは賢い設定ですね。

小野 そうなんですよ。しかも最後に驚くようなやり方で主人公は、「西」を目指す。見事です。こういうことをやっている人がいるのを見ると、文学にはまだまだいろいろな可能性があるなと思います。クッツェーだって、最近の作品については批判的なこと言われたりしても、我関せずでやっているじゃないですか。

福嶋 最近の『モラルの話』(J。 M。 クッツェー、2018、人文書院)もエリザベス・コステロがますます酔っ払い婆さんみたいになっていて、ずいぶん自由奔放な作品でしたが、僕は嫌いではありません。