存在論的な技術論への留保
福嶋 ナンシーは営み=作品としての共同体というのを批判したわけですが、それがファシズムの論理をも解体するわけですね。ただ、ナンシーに対してしばしば向けられる批判は、ある種の神学的傾きがあるのではないかということです。つまり、彼のパルタージュ(分有)の思想にしても、例えばキリストの身体=パンをみんなで分け合うというミサのイメージが密輸入されているのではないか。そうすると、確かにファシズム的ではないかもしれないけれども、結局、カトリック的な神学がかなり入った共同体論ではないかという批判は常にあると思うんです。それについてはどうお考えになりますか。
西谷 分有の考えは存在の有限性を含むものであっても、必ずしもカトリックに回収されるものではないと思います。そのことはナンシーといろいろと議論したことがあって、「キリスト教との決着はやはりやらないといけないんじゃないか」と言ったこともあります。ナンシーもそれは意識していると言っていました。それに関してはDéconstruction du Christianisme(2005, 2010, Paris: Galilée=2009、大西雅一郞訳『脱閉域─キリスト教の脱構築 1』、2014、大西雅一郞訳『アドラシオン─キリスト教の脱構築 2』現代企画室)という本を出していて、それが彼なりの答えだと思います。だからそれはもちろん意識しているけれども、それよりももう一歩進んで私がナンシーに対して留保があるのは、むしろ形而上学の伝統なんです。
キリスト教の枠組みというのは、ヨーロッパの人なら当然ながらあるんだろうけれど、私たちはキリスト教のネイティブではないから、「ああ、これはキリスト教的だな」というふうにして少しは解いていくことができると思います。それに対して、やはりものを考えるという時に、哲学的思考に多くを学んでいるわけだし、バタイユにしてもその上で書いている。だからこっちにも関わってくるわけですが、その時にやはり形而上学の伝統、存在論の伝統というのが気になるんです。
例えば、ナンシーとは東日本大震災の後にもやりとりをして、東洋大のシンポジウムでフランスとビデオ中継で話をしたりしたんだけれど、その時も少し留保を出したんです。というのは、技術論になってくると、ナンシーが言うことは、結局、ハイデガーの技術論、あるいはフランスだとベルナール・スティグレールがいますが、ハイデガーを受けて技術の展開を存在の展開の中に組み込んでいくわけです。
福嶋 ハイデガーの技術論であれば近代の「ゲシュテル」に対する批判になるわけですね。
西谷 そうですね。技術というのは人間のあり方そのものの中に組み込まれていて、存在の展開というのはそれを貫いているということになると、その「不気味さ」(ウンハイムリッヒ)は指摘できるし、その成行きもかなり批判的に記述できるわけです。けれども、それは結局、技術込みの存在論の展開の中にとどまってしまうしかない。ハイデガーは、最終的には「神のようなものが」とつぶやくけれど、そのすべてを存在の自己展開なるものに預けていかざるを得ない。
ナンシーは計量的理性の働きであらゆるものが「一般的等価性」に還元され、その支配が進むということは指摘するけれども、結局はそれを存在の展開として受け入れて、それに付き従って思考するというふうになっていく。これはハイデガーが更新したというけれども、やはり形而上学の伝統だと思うんです。だとすると、実践的に意味のある批判ができなくなってしまう。
私としてはそこには留保があるんです。西洋の自己展開が終末論的になってしまったとすると、まさに今の段階で、このまま存在の展開に身を委ねて、結局、終末論に身を流されるということでいいのか。もちろん社会主義は人為の介入によって失敗した。けれども、西洋的文明の破綻がここまで危機状況になっている時に(走り続けている地面がもうない)、それに対して何も介入できない、あるいは制動を効かせられないというのであれば(「制動」というのは画家の宇佐美圭司さんの言葉です)、私なんかは人間をやっていても無駄だと思ってしまうんです。けれども、哲学は、形而上学の伝統は、そうは考えないでしょう―「思弁的唯物論」とか言って時間稼ぎをしようとはするけれど。現在がまさにそういう人類史的な時期だとすると、技術に関しても存在論の枠内にとどまっていたのでは、思考する意味がないのではないかと思うんです。まさに存在論的な考え方が今日まで世界を引っ張ってきたのだから。
でも、ナンシーに文句は言えません。なぜかといえば、現代の西洋的な知と社会状況の地平の中で、彼は死にそうになって、自分の選択ではない形で心臓移植をして、そこから先を生きているわけですから。テクノロジーの最先端を身内に受け容れることによって、彼の生存の現在がある。そうすると、技術が存在を変えるということを受け入れる形でしか彼の思考はあり得ない。そのことは全く否定しないし、彼はそれをきわめて自覚的に思考し続けてきました。けれども、わたしはまだそれをやっていない側にいると思うわけです。そうすると、テクノロジーに対する考え方というのはまた変わってくる。
福嶋 哲学にとって、テクノロジーというのは躓きの石ではないでしょうか。昔マックス・シェーラーの本を読んでいたら、エジソンみたいな技術者は「発明」はできたかもしれないけれども、しょせん「ホモ・ファーベル」なのでサルと同類だみたいなことを書いていて驚きましたが(笑)、技術をかなり見下すタイプの思想も西洋哲学の中には伝統的にあったように思うんです。ただ、20世紀以降の思想は、そういう形でテクノロジーを処理していてはとても成り立たないですね。それでハイデガーだと、自然を収奪するゲシュテルへの批判をやるということになる。
西谷 ハイデガーは、それを強烈な批判として出したはずなんだけれど、その批判を根拠づけることができなくて、「危機の中にこそ救いはある」といったお題目を唱えることしかできなかった。
福嶋 あるいは詩的言語に立ち返るということですね。
西谷 それが形而上学の限界だと思う。
福嶋 そうすると西谷さんとしては、技術と存在論が結託してしまうという状況に対して、また別のタイプの哲学があり得るというお考えですか。
西谷 あるいは、狭い哲学に見切りをつけているんです。特に形而上学の伝統に見切りをつけていて、だからルジャンドルをやっているということになります。それでまたナンシーが怒るんですけどね(笑)。