プロティノスからバタイユへ

福嶋 少し話を展開すると、西谷さんの面白いところは、世界戦争以降の半世紀以上の大きな流れの中から、20世紀の思想を再考されているところにあると思います。その場合、やはり西谷さんにとって非常に特権的な対象だったのはバタイユではないでしょうか。

レヴィナスもそうですが、バタイユもある意味で極めて強力な否定性の思想を帯びた人だと思います。彼には「使いみちのない否定性」という言葉もありますし、さらにこれは東浩紀さんの見立てですが、20世紀後半のフランス思想に「否定神学」が刻印されていたことも確かだと思います。ただ、昨今の状況を見ると、そういう強烈な否定性の思想がどうもあまりメジャーではなくなっているという印象も受けるんです。

その場合、20世紀の思想を支えていたと思われる否定性の思想というのは、21世紀のこの現状においてどのように展開していくとお考えでしょうか。あるいは、もう少し具体的に言えば、バタイユ的な思想というのは21世紀においてどのように継承していくことができるのでしょうか。

西谷 「否定性の思想」なんて昔からずっとありましたが、一度だってメジャーだったことはないわけで、それを排除したいと思う人たちが、妙な被害意識から「敵視」するんだけじゃないでしょうか。ひょっとすると「否定性」ということで想定しているものが少し違うかもしれません。私にとって否定性というのは、在るものは在る、存在するものは存在する、というこの命題の裏として避けがたく貼りついているということですが。

福嶋 私の印象ですと、西谷さんの思想の出発点には、やはり収容所体験という問題があると思うんです。あらゆる法や制度といったものを吹き飛ばしてしまうような経験、つまりハイデガー的なノスタルジックな存在論なんかは吹き飛ばしてしまって、一切の人称性を剥ぎ取られた、いわば裸形の「ある」が出現してしまう経験。それが20世紀の根本体験であって、それをひとまず否定性として念頭に置いていたのですが。

西谷 それ自体が否定性なのではなくて、それを否定的にしか語れないというのは言語的思考の宿命ではないでしょうか。それに、私は収容所なんか体験していない。

福嶋 もちろんそうです。

西谷 だからその体験をベースにはできない。せいぜい自分のごく私的な「裸形の体験」、例えば意識喪失の体験に重ねて考えるしかないですね。そこから主観というものを相対化したうえで、この世界をどう捉え、どう考え表現するかということです。その時に、レヴィナスがハイデガーの「存在(ザイン)」を受けて「ある(イリア)」としてテーマ化したものを、あるいはバタイユが「恍惚」をアルファかつオメガとして知の全体系と格闘したことをどう受けとめるかということなんです。その際、一番啓発的だったというか、哲学的思考の宿痾みたいなものを気づかせてくれたのは、実はずっと古いプロティノスのような著作です。

福嶋 流出論ですか。

西谷 流出論そのものというより、知のあり方を語ったところです。プロティノスの『エネアデス』の 6 番目だかに「悪とは何か…」という章があって、そこにおそらく誰よりも明確に言語的思考の問題が書いてある。存在するものは存在する。そして存在するものにとっては、存在すること自体が善であり価値なんです。これはトートロジーにも近い、いわゆる「自同律の不快」がプンプンという命題ですが、これを認めないと言語的思考は始まらない。そして逆に、存在しないこと、消えてしまうことが悪とされる。価値というのはそこに発するわけです。これはバタイユも繰り返しています。

生きることは善である、とレヴィナスも『実存から実存者へ』の幾つ目かの版の序文冒頭にあらためて記していますが、プラトン以来哲学は、より善く生きること、その方向を究めることをめざしてきた、と。悪をめざしてさえ、それが目的なら善の追及である、と。

プロティノスは、知性は光に向かうことで善に近づく。そしてそれは光の経験である、と考えた。けれども、それが対象的な知である限りは、まだ十分、光のうちに入っていない。まだ十分、善になりきっていない。その光にみずから溶けてしまう、これが絶対的善の経験である、と。けれども、そこにはもうどんな足場もない。だから、それはエクスタシーなんですが、プロティノスはそれを「非知」という。

けれどもまた、もう一つ違う「非知」がある。それは肉体の泥沼だという。どういうことかというと、知性は身体を捉えることができる、けれども身体というのは、プロティノスにとってというより哲学にとっては、アリストテレス的に言うと形相なんですね。

福嶋 質料ではないんですね。

西谷 そう、身体という言葉で捉えられる限りは形相なんです。しかし、その形相をまったく失ってしまう体験がある。それは知性がまったく光から遠ざかって、肉体の泥沼に沈むと、そこには闇の混濁しかない。それは、一切の意識を失う状態で、そのことに何の価値もないから、救いもなくものすごく苦しい苦痛の体験です。それは「非存在」で、絶対的な悪の体験だとプロティノスは言っている。

しかし、だとすると「非存在」であるその悪は「ある意味で存在する」と言わざるを得ない。つまり、ほかの言葉で言うと、光の経験も現実である―その現実というのはたぶん、ラカン的にle Réel(現実界)のようなものだと言っていいでしょう―けれども、夜の体験もまた現実である。ただし、その現実は、どんな意味でも形相化できない。あらゆる形相の外部にある。だから、語れない。そういう境位を近代以降の哲学の言葉で言うとすると「非実体的現実」ということになりますね。このことについては昔書いたことがありますが(「輝く闇、バタイユ・ヘーゲル・プロティノス」、『離脱と移動』、1997、せりか書房所収)、その時「非実体的現実」という言葉を使いました。

福嶋 カントの「物自体」のようなものと考えていいでしょうか。

西谷 そういうことになりますね。

バタイユはヘーゲル以後の時代にこのことを復活させたのだと思います。だから「バタイユは2000年来の思想家だ」とか書きもしたんですが、西洋的思考の中で、プラトンからプロティノスにつながって、そこからずっとうねる波動のようなものがあって、ヘーゲルの「絶対知」を結節点にして、そこから先に、近代的思考をその「非実体的現実」に開こうとしたのがバタイユだと思っています。ラカンはそのバタイユに触発されたと言われていますね。

言語的に見てもそうですが、要するに、形相というのは全く自己同一的なものです。というのも、形相が意味しているのは形相自身だからです。けれども、質料という概念自体は形相なんだけれど、この質料という概念が指し示そうとするものは形相ではなく質料なんですね。だからこの概念は、自分が指しているものと自分自身が異質なんです。そのことを論理に組み込まないと、実は自足した枠の中で、形相という地平でしかものを考ていないということになる。それをバタイユは観念論として批判したのです。

バタイユの言葉で言えばへテロロジー(異-論)。「存在は在る」、「Aは非Aではない」、「Aかつ非Aであることはない」という論理によって成り立つ思考だけでは、全現実に対応できないという考え方ですね。だから回収されない「非知」に踏み出す。バタイユのいちばん大事なところはそこだと思う。