ジャン=リュック・ナンシーの共同体論
福嶋 大変面白いお話で、ありがとうございます。私がこの本を読んで連想したのは、ちょっと突飛かもしれませんが、戸坂潤の『日本イデオロギー論』なんです。戸坂は経済的自由主義を批判し、その経済的自由主義に哲学において対応するのが西田幾多郎だとして、西田も批判する。1930年代の自由主義に対する戸坂的な批判が、西谷さんの本でまた新しいやり方で反復されていると思ったんです。
ただ問題なのは、戦前の日本哲学の自由主義批判というのは、田邊元を典型として、大東亜共栄圏やファシズムのような論理とも実は親近性があったことです。アメリカの自由主義を批判するという西谷さんのプログラムはよくわかるんですが、自由主義に替わるものについてはどのようにお考えですか。それが例えば、ファシズムと接近してしまうという危険性はありませんか。
西谷 例えば、バタイユなんかもそんなふうにして批判されていましたね。けれども、恐らくあの時代のヨーロッパで、キリスト教社会が崩壊し、近代合理主義と近代経済が大展開する中で、彼自身のある種の幻想みたいなものもあって、アセファル共同体のようなものをやったりするわけです。けれども、それは全体主義志向とは対極にあると思う。
私なんかも時々、ネットで「バカ左翼」とか言われる一方で、本当の左翼の人たちの間では、「ちょっとうさんくさくて、右翼っぽいじゃないか」とか言われたりもする。けれども、赤軍派とか極左で何年も刑務所に入っていたようなおじさんたちとは、革命をめぐっては議論になったりするけど、わりあい受けは悪くない。いろいろな見られ方はあるだろうというのは自分でも感じます。
福嶋 なるほど。言うまでもなく、私は西谷さんがファシストや単純な左翼だとは思いません。ただ、自由主義批判が陥りがちな罠というのは常にあると思うんです。
西谷 それはそうですね。そこは私は、ジャン=リュック・ナンシーに多くを学んだと思っています。バタイユの共同体への傾きの問題をどのように解いていけばいいかというのは、これだ、という形でナンシーが示してくれた。
これまでも何度も書いたり話したりしてきたことですが、ハイデガーの大きな意義は、近代哲学に初めて共同体論をもちこんだ、あるいは存在に関して「共存在」を置いたことだと思います。しかし、『不死のワンダーランド』にはっきり書いたことですが、ハイデガーはその共存在の思想を歴史的形成物としての民族共同体に無媒介に帰着させてしまった。これがauthenticな、真正の共同性なんだ、本来的共存在なんだ、と。けれども、それはまさに歴史的形成物としてハイデガーに染みついていた当時のイデオロギーですね。
ナンシーは、そうではなくて、むしろ想定されるあらゆる共同性が立ち上がってくる以前に、あるいは個に不満を感じる人間が欠如を埋めるために構想する共同体の手前に、人間が個として立ち上がる場面がほかならぬ、“être -avec” だ、“being-with” だ、ということを洗い出した。それが私のベースになっています。
“being-with” ということが、個の形成や、共同体の生成というものの下にある。そのことはまさに実体化できないから、それをベースにしてものは語れないんだけど、人間が「共」であることの根拠がそこにあるということになると、共同性の考え方はガラッと変わってきます。戦後ずっと共同性を語ることはほとんどタブーでしたが、それがナンシー以後、語れるようになった。そして人間が言語を使う以上共同的存在だということも、言語共同体という実体に回収するのではなく、個が成立するというその場に定位できるようになった。
だからその後を、例えばジョルジォ・アガンベンなどが引き継いで別の展開をし、イタリアではロベルト・エスポジトとかいろいろな人が補強したりしているわけです。そういう共同体論、あるいは共存在論があると、原理的に今までの共同体論の考え方が解体されてしまうから、そこからはファシズムのような思考は出てこない。
共同性を否定するために個を強調するのと同じで、自由も孤立した個を前提に語るとおかしくなる。共同性を認めることは自由の否定にはつながりません。