合理性を支えるコナトゥス

西谷 そうです。まさにお互いの理性が現実の戦争の最後の頼みになる。けれども、そのたがが外れた。どういうことか。理性とは何なのか。これは合理的=リーズナブルであるということで、それを理性が担うわけですね。スピノザが言ったことですが、「自由な人間は死について考えることが最も少ない」と。考えないわけではなく、考えることが最も少ない。そしてその自由な人間というのは、理性にのみ基づいて行動する人間である、と。

では、理性とは何かというと、これは人間―もちろん複数です―が生きている領域で意味をもつ思考の力です。なぜ死について考えることが少ないかといえば、死後のことを考えても意味がないから。例えば、個人でもそうですが、人類全体で考えてみた時に、人類の滅亡後のことを考えるとして、それに何の意味があるのか。もちろん人類誕生以前については考える。なぜなら、それは由来だから。けれども、人類滅亡以降のことを考えても全く意味がない。それは究極の不条理なわけです。

だから、理性は死後のことを思い煩わない。理性に適っている、合理的であるということは、人間が生存しているということを前提にしています。人間が生存していることを前提にした圏内で、人間の生きているという空間を前提にしないとものは考えられない。だから、人間がものを考えるとか、何かを認識するというのは、実は生存の世界というのが大きな枠になっています。では、その生存の世界の根本原理は何かという時に、スピノザは古い言葉を使って「コナトゥス」と言ったわけです。

在るものは在り続ける、生きているものは生き続ける、この傾向のことをスピノザはコナトゥスと言いました。このコナトゥスは「存在への固執」とか「自己保存の傾向」と言われますが、生物学的なことを前提にしているわけではなくて、まさに「在るものは在る」という存在の論理の根幹なんです。これはパルメニデスですね。在るものがないとは言えないから在る。プラトンだと『ソピステス』で議論していますが、在るものは在ると言わないと言説自体が成り立たないし、事実として、「在るものは在る」なんです。「在るものがない」というのは、比喩的か、現実にそぐわないフィクションとしてしか言えない。あるいは単なる誤謬です。それは個人についても、人類全体が滅亡する時も同じですが、人が死ぬ時に、「私はいま死ぬ」とは言えても、「怖い、でも、私はいま死ぬんだ……ウーッ死ぬぞ、死ぬ~、……はあッ、死んだ」とは絶対言えないわけですね。そう言ったところから小説が始まるとは言えるかもしれないけど、そうなったらフィクションです。言語的にいえば、「私」という一人称は「死ぬ」という動詞の完了形の主語になることはできない。それと同じで、「在るものは在る」と言わざるを得ない。

その拘束を内在的にみると、それは拘束ではなく、在るものは在り続けるし、生きているものは生き続けようとする。そこにスピノザはコナトゥスをみた。近代の合理性の境界を支えているのはまさにそれなんです。そのかぎりで理性は有効である。理性とはそういうものです。だから、自由な人間は、つまり理性的に思考する人間は死について考えることが最も少ない。

福嶋 それは極めて反ハイデガー的な物言いでもありますよね。

西谷 それ自体はね。ヘーゲルが一度、死を直視しようとしたけれど、すぐに蓋をした。そしてハイデガーがこれに挑戦したんですよ。このことはかつて「不死の時代」(ジャン=リュック・ナンシー『侵入者―いま〈生命〉はどこに?』2000、以文社所収)という論文で整理したことがあります。

福嶋 今おっしゃっていたのは、死は人間にとって外在的であり、思考できないというお話ですよね。ハイデガーの場合は、むしろ死を自覚し、それによって本来的な存在に立ち返れという議論になりますよね。

西谷 でも死に向き合うだけで、それを究極の可能性として留保しようとした。それに対して、レヴィナスが死は不可能だと反論した。そして外部化したのですね。ただしその外部は、主体を溶解して呑み込む。

福嶋 確かに。

西谷 一つ面白い話があります。「あの世とこの世は地続きだ」と言ったのは丹波哲郎ですね。彼は並ではなくて、すごいものを背負っているんですよ。平安時代に日本の朝廷で、それまで入ってきていた漢方の知識をまとめて『医心方』という本が編まれます。この『医心方』は朝廷秘蔵だったんだけど、それを江戸末期までずっと守り続けてきたのが丹波家なんです。幕末の頃に抗争があって、半井家というのがそれをがめちゃって丹波は外されるんだけど、それが丹波哲郎の家系なんです。だから、彼が「あの世とこの世は地続きだ」と言うと、そこに東洋医学3000年の歴史が蘇ってくる気配がある。東洋医学というのは中国における人間についての考え方で、それが蘇ってくる。ついそれを思い出してしまいますね(笑)。

コナトゥスに話を戻すと、西洋的な合理性というのは、人が生きている限りで意味がある。だからMADであれ何であれ抑止力が成り立つ。こっちはこれだけ核を持っているから、おまえも手をだすなと言って、お互い先制攻撃ができないという状態になる。おまえ死にたくないよね、おれも死にたくない、命あっての物種じゃないか、と。ところが、「死んでも構わない」と思う連中が出てくると、つまり、コナトゥスを持たない相手が現れると、この脅しは通用しません。命が最終兵器ということですが、相手から見れば「死の爆弾」です。そんなものが登場して、理性ゲームの底が割れて、だからアメリカのあの安定世界―といってもわずか 1世紀だけど―が崩れてしまった。

福嶋 神風特攻隊みたいなものですね。

西谷 そうですね。あれは日本以外のところでは「カミカゼ」と言います。日本軍が「特攻」をやった時に、米軍がすごいパニックに陥ったというのも同じでしょう。あいつらにはコナトゥスがない、と。けれども、身体に爆弾を巻いて突っ込むのは狂気なのか。確かに。やる方からすれば、もうそれしかないという戦法で、ある意味では合理的なんだけど、存在に固執するという理性の足元を踏み抜いちゃっているんですね。

福嶋 実際、アメリカはパニックになったように見えますね。例えば、オサマ・ビン・ラディンだってあくまで「容疑者」ですから、本来は裁判にかけて裁かないといけないのに、テロリストなんだから国家ぐるみで暗殺してしまえということになる。これは言ってみれば、アメリカの側も法的な理念を遮断してしまって、理性のパニックに駆られながら、むき出しの生存闘争に乗り出していっているということだと思うんです。