講演会記録 1998年度
JALT日本語教育研究会シンポジウム
「状況的学習と日本語教育」
[日時]1998年12月5日(土)
[会場]一橋大学東キャンパス(東1号館1304教室)
[講師]
杉本 明子(国立国語研究所)
春原 憲一郎(海外技術者研修協会)
西口 光一(大阪大学)
田中 望(立教大学、比較文明学)
[進行]林 さと子(津田塾大学)
比較文明学公開講演会
「<生命>とは何か~生命の論理、生命への視線」
[日時]1998年1月22日(木)17:30~20:00
[会場]立教大学太刀川記念館3階ホール
[講師]
竹田 純郎(金城学院大学教授、現代哲学)
横山 輝雄(南山大学教授、科学哲学)
西平 直(東京大学助教授、教育人間学)
横山 紘一(立教大学教授、インド哲学)
[進行]森 秀樹(立教大学教授、中国哲学)
[趣旨]
地球的規模での環境破壊が進み、人間と自然の関係のあり方が現代ほどきびしく問われている時代はない。人間も自然も、生命(いのち)あるものすべての存在の意味が、いま、根底から再検討を迫られている。 もちろん、現代の進んだ生命科学は、「生命」活動のシステムと物質的基礎を見事な精密さで「科学の論理」として解明してきた。「生命」は物質から成り立ち、物質を産み出してゆくプロセスであることに間違いはない。しかし、我々の「生命」は「個」であると同時に「他者」の中にあり、また多様な「精神活動」をともないながら複雑に変化してゆくまことに謎めいた存在である。それは、閉じられていると同時に、永遠に開かれてもいる。
この不可思議な、畏敬すべき「生命」の謎と神秘について、科学、宗教、哲学、社会学、心理学、神話学等を横断する仕方で捉えかえすことによって、現代に生きる我々の「生」の意味をじっくり考えてみたい。 なお、この「シンポジウム」は、1998年度から開設される立教大学大学院・文学研究科の新専攻「比較文明学」が目指している精神(従来の学問領域にとらわれず、現代的な観点からテーマを設定し、学科横断的な学問研究と教育を行うこと)に沿って実施される〈連続講演会〉の一つである。
全学共通カリキュラム日本語教育研究室ワークショップ
「日本語教育の新しいパラダイムを求めて」
[日時]1998年1月17日(土)13:30~16:00
[会場]立教大学5号館3階 5322教室
[講師]
水谷 修(国立国語研究所長、日本語教育学会会長)
J.V.ネウストプニー(千葉大学教授、日本語教育学)
菊池 久一(亜細亜大学助教授、外国語教育学)
斎藤 里美(東洋大学助教授、多文化教育学)
春原 憲一郎(海外技術者研修協会講師、日本語教育学)
古川 ちかし(川口市民の会、日本語教育学)
[進行]田中 望(立教大学教授、言語多文化学)
比較文明学公開講演会
「芸術文化と地域コミュニティの甦り」
[日時]1998年1月16日(金)17:00~19:00
[会場]立教大学7号館1階 7101教室
[講師]
岩淵 潤子(著述業、美術館運営論)
岡部 あおみ(メルシャン軽井沢美術館チーフキュレーター)
根木 昭(長岡技術科学大学教授、文化行政)
[進行]北山 晴一(立教大学教授、文明工学)
[趣旨]
いかに地域コミュニティの再生をはかったらよいのか。21世紀を目前にして、いま日本のみならず世界の各地で、このような問題提起がなされている。消費経済と都市化の普及にともなって世界の各地で、地域住民の間での人間的なつながりの希薄な、断片的で、自己閉塞的な文明社会の出現を見るに至っているからである。
地域コミュニティの再生といっても、それは、いうまでもなく、かつて存在していたような、しばしば個の自由と尊厳を犠牲にすることで成り立っていた伝統的な共同体の復活を求めているわけではけっしてない。自己閉塞的な文明社会の袋小路からいかにして抜け出し、また、いかにして多様な価値観を互いに認めあう共生の原理にもとづいた地域コミュニティを創生したらよいのか、という切迫した問題提起である。
では、このような問題提起にたいしてどのような解答が可能であるのか。 いま世界の各国で、文化政策が社会福祉的な観点から見直されているが、それは、文化的な活動が、たんに大衆消費の段階をクリアした高度消費社会に生活する裕福な市民の暇潰しとしてあるのではなく、地域にすむ市民一人一人のコミュニティ形成の契機(酵母)として、社会的な必需品となっていることが認知され始めたこと示しているのである。
逆に言えば、文化的な活動の社会的な意義がどこにあるかと言えば、それは、文化的な活動が、上述したような問題提起にたいする有効な解答を与えてくれるかもしれない、という期待感にこそあるといえる。 近年、日本の各地に、あるいは自治体によって、あるいは企業によって、おびただしい数の美術館博物館、芸術センター、文化会館、市民会館などの文化施設(いわゆるハコモノ)が作られたが、そうした施設の経営がもし、大都市から文化的芸術的な評価の定まった有名作品や有名人をよんで集客することのみを自己目的化してしまうのであれば、それはいわばたんなる贅沢消費にすぎない。いったん企業や自治体の財政状態が悪化すれば、施設の経営は早晩、袋小路にはいってしまう恐れがある。これでは、文化的な活動の意義の実現を期待することは出来ない。
しかし、では、地域の文化施設が、市場原理にのっとった形での経営上の採算を主眼にするのではなく、地域コミュニティの創生にあたっての酵母の役割をはたすためには、どのような条件が必要であるのか。 このような問にたいする解答を探ることが、今回の公開講演会のねらいである。