本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第23号』に収録された巻頭インタビューを再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。
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今、考えていることを伝える
林 教師としての陣野さんについても伺わせてください。そもそも授業を持つようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
陣野 大学院の博士後期を途中で辞めて、非常勤で語学を教えるようになったのが93年かな。当時はまだ語学の非常勤が結構あったから。もう30年前も前のことというのは、ちょっと信じられないですけど。
林 さきほどグリッサンを読ませたという話がありましたけど、それはいつ頃どんな授業だったんですか。
陣野 確か97、8年のことで、明治学院でやっていたフランス文芸批評という授業ですね。
林 それくらいの時期にやっているのは早いですね。
陣野 早いというか、その時に自分が関心を持っていることしか話せない。そんな教師です。今、異文化理解と称する授業を3個ぐらいやっていますけど、大体ヒップホップとサッカーの話ですよ。最低限、フランス社会論になっていることを前提として、そのことを歌詞から読み取ったり、それこそジネディーヌ・ジダンのプレーの背景にはこういうことがあって、みたいな話とかも織り交ぜながら喋っています。
林 面白いですね。異文化理解をテーマにした授業は今はどこの大学でもあると思いますけど、異文化適応曲線のUカーブとVカーブがどうのとか、文化的ステレオタイプを強化するとしか思えない「面子交渉理論」なんてものを上から当てはめてどうこうみたいな授業が多いように思います。でも陣野さんの場合はまったく違って、ラップであれサッカーであれ学生たちが生きている今現在に接続することではじめて思考が始動するような、わたしたちが立っているこの足下の低い目線から考えようとしている。
陣野 今ならノーベル文学賞をとったアニー・エルノーの話をよくしています。彼女はアサンシオン・ソシアル、日本語だと社会的上昇みたいなことが中心的なキー概念なんだけど、それをいきなり異文化理解をテーマにした授業で学生に言っても通じないでしょう。つまり、彼女は労働者階級の出身で、自分のことを赤裸々に書くことによって作家を続けてきたわけです。そこで、学生に質問するんです。労働者階級出身であることをカミングアウトするのと、同性愛者であることをカミングアウトするのと、フランスの社会ではどちらが言いにくいと思うかを聞くと、みんな同性愛の方だろうと言うんだけど、そうとばかりは言えない。アニー・エルノーが何度も言っているのは、自分の出自、労働者階級だったことを言うのにすごく躊躇いがあったということなんです。授業は、そういう社会なんだということを知ることが異文化理解の出発点になることをわりと新しい素材から喋っています。