本記事は、文芸・思想専修2018年度パンフレット『キミだけのコトバを聞かせてほしい』の一部を転載しています。

田中美月さん(4年生・司会)×坂東遼太郎さん(2年生)×長嶋皓太さん(3年生)×三浦萌衣さん(3年生)×直井美奈子さん(3年生)
(学年は2018年8月時点のものです)

「自分なりの読み方」のその先へ

田中 みなさんはどうして文芸・思想専修を選んだのでしょうか?

三浦 私は「文学部に行く」ということだけは決めていたのですが、日本文学や英米文学のような専門分野はまだ決められていなくて、それなら何でもやれるところに行こうと思ったんです。

坂東 僕は小さな頃から本を読んだり、詩や小説を書いたりするのが好きで、高校生の時には哲学にも興味を持つようになって、詩も小説も哲学も、とにかく「文学」と名のつくものを学びたいと思い、文学や思想に広く開かれた文芸・思想専修を志望しました。

直井 私は演劇を観るのが好きなのですが、単に演劇や身体表現というだけでなくより広く文学や思想という分野から芝居やミュージカルにアプローチしてみたいと思ったんです。

長嶋 僕は高校時代から海外文学が好きだったのですが、専攻を特定の領域に限定したくなくて、文芸・思想専修は「横断的な学び」を掲げていたことに魅力を感じました。

田中美月

田中 私も小説を読んだり演劇を観たりするのが好きだったので、やはりいろんなことに開かれていることが魅力でした。では、実際にこの専修に入って、どういうことが印象に残っていますか?

直井 高校生までは「自分なりの読み方」でしか本を読んでいなかったんだ、ということを改めて感じました。文芸・思想専修に入ってから、ひとつの作品にもいろいろな読み方があることを知り、またその本が書かれ、その言葉が発された背景や世界について考える訓練を受けていると思います。

長嶋 僕も高校の時とは作品との向き合い方が変わりましたし、ここに入るまでは想像もしていなかった世界に触れることができています。そういう意味で印象に残っているのは、少人数形式で行われる演習で触れたアフリカの文学です。たとえば、南アフリカのJ・M・クッツェーの『恥辱』という作品には、アフリカの現状や歴史に目を向けざるを得なくなるような小説の迫力を感じて、それ以前の自分とは違った読み方を要請されました。

田中 私は映画論の授業で、先日カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞された是枝裕和監督がいらっしゃった時のことがとても印象に残っています。事前に学生たちで質問を考えてきたのですが、予定の時間を大幅に超えて私たちのインタビューに応えていただいて。それを参考にして書いた是枝監督の作品論を、「雑誌をつくる」という演習でつくる「ツタノハ」という雑誌に載せていただいたのは、とてもいい経験になっています。

いま、なぜ、文学を学ぶのか

田中 一方で、文学や芸術というのは法律や経済のような実務とは違う、そんなものはなくたって社会は機能するんだ、ということが世間では言われたりもしますよね。そんな中、私たちがここで文学や思想を学んだり、手を動かしてそういうものをつくろうとしているのはなぜだと思いますか?

長嶋皓太

長嶋 今の社会には「意味がないと存在してはいけない」みたいな風潮があると思うのですが、それに抗しうるのが文学じゃないかと思うんです。たとえば詩を書く授業で感じたのは、「詩」という形で表現された言葉の意味がその時はわからなくても、それをそのまま引き受けて自分の中に置いておくと、生きている中でだんだんその意味が氷解してきたりすることもあります。一見しただけでは意味がわからないもの、価値があるかわからないものを、そのままの形で置いておくことのできるスペースが、文学に触れるなかで自分の内につくられている気がします。

坂東 村上春樹さんがエルサレム賞を受賞した時の演説で、「文学というのはシステムに対抗しうるものだ」ということを言っていて、すごくいいなと思ったんです。政治や経済という「システム」が押しつけてくるものを超えて、人と人の魂をつないでいくものが文学なんだ、という。

直井美奈子

直井 カズオ・イシグロさんもノーベル文学賞の受賞記念スピーチで、「分断が広まりつつある世界で、文学はとても大きな役割を果たす」というお話をされていましたよね。システムによって分断されつつある世界にあって、そこに橋を架けるような存在として文学があるのかなと思いました。今の私にとっては、「世界を知る」というのが一番大きくて、そのための窓みたいなものが文学や映画、舞台や音楽だったりする。未熟な自分が、この先の自分というものを形成していく土台を培っていくために学んでいると思っています。