立教大学文学部文学科 文芸・思想専修では、不定期に公開講演会を実施しています。
ここでは、小説家、児童文学作家、翻訳家、エッセイストして活躍のめざましい江國香織さんを迎え、小野正嗣先生が聞き手となって行われた講演会(2014年10月8日、於立教大学池袋キャンパス本館)の記録をお届けします。
江國さんには、ご自身の読書体験と自らの創造行為におけるその需要、翻訳行為と創作行為との関係などのテーマについて丁寧に語っていただきました。また、終盤には会場の学生からの質問にも惜しむことなく応答をしていただきました。その内容を全編にわたってご紹介します。
目次
— 本は、持っているだけでもいい
— 異なる言葉の響きの中で
— 旅はものごとをわかりやすくする
— 場所の力を借りること
— 何もかも、言葉が先にあった
— 子どもに届けることの難しさ
— 言葉によって、ここではないどこかへ
— 児童文学は待っていてくれる
— 言葉はどうやって選ばれていくのか
— 行き詰まった時は、異物を投げ込んでみる
— 外国人の目で日本語を見たい
本は、持っているだけでもいい
江國 こんばんは、江國香織です。こんなにたくさんの人にお集まりいただいて嬉しいです。でも少し緊張しています。学校は昔から苦手でした(笑)。
小野 今日は江國さんをお招きするには日が悪かったんじゃないかと危惧していたんです。なぜなら、今日(2014年10月8日)は皆既月食の日です。今外に出るとわかりますが、月食はすでに始まっています。江國さんの作品では、月や青白い月の光はよく出てくる重要な要素ですから、江國さんはこんなところにいるよりも本当は外に出て月を見たいんじゃないかと。そんな時にこんなところに連れてきて申し訳ありません。
とはいえ、立教大学にいらしてどういうことをお感じになられたか、まず教えていただけませんか。
江國 唐突に出現する大学だなと思いました。大学というのは門から校舎までが長い、森のようなイメージがあったのですが、立教大学は街を歩いていると急に大学になりますよね。でも中に入ったらいかにも大学というイメージの素敵な校舎で、この大学の学生になりたいと思いました。
小野 学校は苦手な場所だったとおっしゃいましたが、江國さんはどのような学生生活を過ごされたんですか。
江國 短大生でしたから2年間だけでしたけど、非常に覇気のない、今思うとしょうもない学生でした。授業は必要最低限しか出ず、単位も卒業ギリギリしか取らなかったんですね。そのぶん時間だけはいっぱいあったので、本を読むか妹と遊んでいました。その遊びも絵を描いたりシャボン玉を飛ばしたり折り紙を折ったり、短大生なのに小学生みたいなことばかりしていました。
小野 学生時代に読んだ本の中では何が記憶に残っていますか。
江國 学生時代にこれを読んだ、というのは実はあまり記憶に残っていないんです。本に関しては見栄っ張りだったので、有名なものを「あれも読んだ、これも読んだ」と言いたくて読むという感じで、あまりじっくり読んでいなかったのかもしれない。けれど、1冊ずつはそんなに私の中に染み込んでこなかったとしても、あの時期、たくさんの本を読んだことの意味はあったと思います。
小野 僕が所属している文芸・思想専修の学生さんたちは本当によく本を読んでいるんです。ところが、今どきは「本なんて読まなくたって構わないじゃないか」、もっと言えば「文学なんて読まなくたって生きていける」という雰囲気が世間にはあるので、そういう学生はマイノリティです。それでも彼らは授業で教師が取り上げた本を読んだり、本屋さんに足を運んだりしていて頼もしいのですが、今の江國さんの話はとても励みになると思います。
江國 本は絶対にいいものだと思っています。読まなくても持っているだけでもいいんです。背表紙を見るだけでもその本の5%くらいは染みこんでくる。本がある人生と無い人生は全然違います。
小野 実際、江國さんの作品では、登場人物たちが、オブジェとしての本と言えばいいんでしょうか、本の紙やその質感、匂いといったものをとても大切にしていますよね。本との接し方は「読む」だけではないということですよね。
江國 読むだけではないと思います。もちろん本は読むものではあるんですけれども、読んだ後にもその物語空間がその本の厚みの中に存在するわけです。けれどもたとえばテレビで面白いドラマや映画を見ても、消した後は見ていたものがなくなってしまう感じがして、個人所有している感じがしない。本は個人所有するものなので、同じ本を10人が読んでもそれぞれが自分のものにできるんですよね。個人所有というのがすごく大事なんです。
小野 いま、僕の手元に『ぼくの小鳥ちゃん』という本がありますけれど、これを僕が読むと、この本が文字通り「ぼくの小鳥ちゃん」になるということですよね。
江國 そうあって欲しいです。空間が本に占められているということの贅沢さってあると思うんです。一冊の本の中にどれだけの時間や人や土地が閉じ込められているかと考えると、本のある空間は、空間そのものよりもはるかに多くのものを含んでいるということも私は好きですね。
異なる言葉の響きの中で
小野 江國さんは大学をご卒業された後、留学されていますよね。
江國 アメリカに1年だけですけれども。
小野 愚問と思いつつあえて伺うのですが、なぜ留学しようと思われたのですか?
江國 私は短大で国文科に行っていました。それは高校時代、国語が一番得意だったからなんですが、入ってみたら英語の授業が週に1時間しかなかったんです。私が通っていた高校は英語教育に力を入れていたので、高校生の頃は毎日たくさん英語の授業があったのに、それが週1時間になったらすごく寂しくて、自分は英語が好きなことに気がついたんです。履修している授業をサボって英文科の教室の前に行き、廊下でネイティブの先生の英語を聞いていたこともあります。だから、私は国語よりも英語を勉強すべきだったと思ったんです。国語は自分でも読めるし勉強することもできますから。
当時は映画に字幕をつける人になりたかったので、短大を卒業した後、1年間、英語の専門学校に行くことにしました。一方でそれとは別に、外国に住んでみたいという気持ちもありました。アメリカでもイギリスでもいいけれど、とにかく外国に住んでみたかった。だったら日本で英語を勉強するよりも、英語の国に行ってしまえば、英語を勉強するのと外国に住むことをいっぺんにできると安易に考えて留学したんです。
小野 「物語を書きたい」という気持ちはなかったのですか。
江國 その頃はそういう気持ちはありませんでした。書くことはずっと好きで、その頃も短い物語を書いてどこかに応募して入選すると10万円くらい賞金をもらえて、そのお金で旅行に行く、ということはありました。だから書くことはアルバイトみたいなつもりで、仕事にしたいとは思っていませんでした。
小野 物書きになりたいということではなく、純粋にここではないどこかに行きたい、違う言葉の響きの中に入って行きたくて留学をされたんですね。留学中に「自分の物語を書きたい」という欲望が湧いてきたことはありましたか。
江國 「物語を書きたい」というほど具体的ではありませんでしたが、ぼんやりとはありました。アメリカの学校にすごく気の合う先生がいたのですが、その先生と話をしていると、だんだん文学の話になっていくんです。その時に強く感じたのは、「言語は人格だ」ということです。言語は人格と結びついていて、日本語を話している時の私の人格と、英語を話している時の私の人格はちょっと違うと思ったんです。
そのことはすごく面白い発見で、たとえば少しフランス語や中国語やスペイン語をかじるだけでも、まだ知らない中国語の人格やスペイン語の人格も自分の中にはあるんだと思いました。
ただ、すると今度は自分はやっぱり日本語で仕事をするべきかもしれないと思ったんです。「表現する」という言葉は好きではないのですが、自分は日本語を通して何かを表現したい、日本語を使って仕事をしたいとアメリカで決心したんです。
国文科へ行って英語やりたいと思い、アメリカ行ってやっぱり日本語だと思った(笑)。天邪鬼のようですが、それに気がつくまでは本気で英語漬けになりたかったし、日本に帰りたくないと思っていたのですけれど、気がついてしまうとその後の決断は早かったですね。
旅はものごとをわかりやすくする
小野 今のお話を聞いていてすごく印象的なのは、江國さんが日本語でものを書くために、外国語や外国の文化、生活を経由していることです。遠いところ、ここではないところを一度経由して日本語に戻ってきたのですね。
江國 そうです、まったくその通りです。
小野 江國さんの作品やエッセイでは、旅が重要な主題の一つだと思います。作品の中でも登場人物が「旅するということは行って帰ってくることなんだよね」と言いますよね。
ここではないどこかへ行って、またここに戻ってきた時に、自分が今までいた場所の見え方が変わる──自分が今までいた場所に、まったく違う空気や時間が流れていることに気がつく──ということが、江國さんの小説の中ではすごく印象的に描かれていると思うんです。
そのことは江國さんご自身の体験、つまり、ここではないところを経由して日本語に戻ってきて仕事をするようになったという体験と関係があるのでしょうか。
江國 どうでしょうね……。小説に出てくる旅というのは、一つにはツール、方法というところがあると思います。自分で旅をする時もそうですが、旅をするとものごとがすごくわかりやすくなると思うんです。旅をする時というのは自分の実力勝負じゃないですか。
小野 それは基本的に一人旅ですよね? ツアーでは勝負できないのではないでしょうか。
江國 でも、ツアーだったとしても、たとえば旅行荷物というものが大事なわけです。私は旅行荷物という概念がとても好きなんです。そこには「これだけあれば暮らせる」ということの安らかさがある気がするからです。
たとえば1週間の旅でも2週間の旅でも、洗濯をしたり現地で買えるなら洋服はたいして持っていかなくてもいいしょう。一方で、私はずっと髪が長かったので、旅行に行く時はお風呂で髪を留めるピンを絶対に持っていかなければいけないんです。どんな外国に行く時でも、お風呂で髪を留めるピンは必ず私の旅行の荷物に入る。それから、本は何冊くらい持って行くか。「本がないと自分は暮らせないんだ」といったように、自分に何が必要かわかるんです。逆に言えば、「それだけあれば大丈夫」ということを確かめられる安らかさがあって、余分なものがない分、わかりやすい。
だから小説に出てくる登場人物の実力を描きたい時、ものごとをわかりやすくするために旅が出てくる。私の小説の中で、旅にはそういう役割があると思います。
小野 旅が生活や生き方をわかりやすくするなんて、まったく考えたことがありませんでした。僕なんかは逆に、旅行の時に「これで持っていくものは足りるかな」と考えるのが面倒くさいので、必要そうなものは手当たり次第つめ込むんです。それで持っていった本も結局読まずじまいで単に重いだけだったと後悔したりするんです(笑)。
江國 でも、結局読まないとしても、本がないと不安な人間だということがわかるんですよね。
小野 なるほど、そういうことか。
江國 下手をすると洋服より本のほうが多かったり、ジーパンはずっと履いたままでいいと思うのに本は読むものがなくなったら大変だと思ったりするように、旅行の荷物というのは個人的ですよね。
個人的というのは小説の基本だと思うんです。図式で言えば多くの小説は大体同じことを言っているかもしれません。三角関係も四角関係も殺人事件も既に描かれていて、図式としてはそんなに新しいものはないかもしれない。でもそれが全て登場人物個人のことであるから常に新しいものである可能性があるんだと思います。
小野 読書体験も旅も個人的なものであり、書くことにおいても個人が重要ということですね。
図式的に理解すれば、たとえば、ある人を同時に2人の人が好きになって非常に苦しい状況に置かれている、という三角関係は既にたくさん描かれている。江國さんの小説もそうした恋愛関係を扱っていることが多い。でも江國さんの作品を読むと、ひとつひとつ全然違っています。そこに描かれている登場人物たちが個人としてどういう背景や感情の起伏を持っているかがすごくていねいに描かれている。図式的に言えば同じような状況に見えるけれども、個々の作品の印象はまったく異なっている。
旅は生活がシンプルになるという話でしたが、基本的に小説で描かれている人たちの人生はあんまりシンプルではありませんよね。
江國 そうですね。でもシンプルでなければないなりに、旅をするとわかりやすくはなると思います。いろんなものを取っ払っている状態だから、読者にとって登場人物が見えやすくなるということはあります。
場所の力を借りること
江國 私は、小説というのは、場所があって、そこに人がいて、時間が流れたら絶対にできると思っています。たとえば、場所をこの教室に決めて、登場人物はここにいる人たちにして、そこで過ごされる1週間を描けば絶対に小説になると思うんです。これだけの人数を書くのは難しいのでたとえば5人を決めてその登場人物をしっかりつくり、そこにしっかり時間を流していく。
時間は技術だと思います。登場人物は勝手につくることができます。というか、つくらなくてはならない。そうすると、場所だけが他所から力を借りられるということになるんです。だからたとえばパリを舞台にしたいと思ったら、パリに行けばその土地からエネルギーをもらえるし、アイデアももらえるし雰囲気をもらえるので、3つの要素の中で、場所が最も他力本願にできるところですよね。
小野 場所の力を借りるということで言えば、『犬とハモニカ』という短編集の最後に収められた「アレンテージョ」という作品が僕は大好きなんです。ポルトガル中南部の乾燥した地方で、ゲイのカップルがホテルに泊まって過ごす数日間を描いた作品ですが、読んでいるとポルトガルという土地の空気感や光や匂いといったものが浮かび上がってくるようです。
江國 そう言っていただくと本当に嬉しいです。
小野 これは江國さんが実際に訪れた場所ですよね。その土地の力を借りたとおっしゃいましたけれども、ものを書いている人間の誰もが土地から力を借りられるわけではなく、きっと江國さんご自身が身を開いているから、土地もそれに応えているのではないでしょうか。江國さんと土地が、この作品の言葉の中でうまく結合して、手を携えて作品をつくっているようで、すばらしいですね。
江國 「アレンテージョ」は一番そういう側面が強いかもしれません。場合によっては行ったことのない国のことを書いたりすることもあるのですが、「アレンテージョ」は実際にでかけ、すごく無茶なスケジュールで、10日間くらいの日程でテレビ番組の撮影と小説の取材をあわせてやって、しかもこれが原作のテレビドラマにもなっているんです。
小野 たった10日間だったのですか。
江國 締め切りの都合で仕方なくそうなりました。帰ったらすぐに書き上げなければいけないという滅多にないスピード感だったのですが──それでもだいぶ遅らせてしまいましたけれど──印象が強く残っているうちに書いたので、旅日記みたいにその時に見たものや嗅いだ匂いやすれ違った人も詰め込んでいます。
小野 あとがきで触れられている、おばあさんたちが並んで壁際に立っていたというエピソードもとても印象的でした。
江國 その風景は本当に現代美術みたいでした。夜、道端に8人のおばあさんが壁にもたれて、無言で、片方を向いて一列に立っていた。ポルトガルの少し田舎っぽいコットンドレスを着ていて、すごく不思議でした。
住んでいる人たちもおっしゃっていましたが、アレンテージョという土地は、すごく男性優位が残っているらしくて、働くのも女性だそうです。その人たちの無言の息抜き、無言の井戸端会議なのかなと想像したり、いろいろ面白かったです。
何もかも、言葉が先にあった
小野 旅する時には、後で物語の素材にするために、日記を付けたり写真を撮ったりされるのですか?
江國 メモはします。二十代の頃は旅に限らず「日記魔」で「手紙魔」でした。当時一緒に旅した人に、「実際に外を歩いている時間より手紙を書いている時間の方が多い」と言われたことがあるくらい、見たものを言葉にして書かないと自分の中に定着しない感じがしていたんです。見るだけ、食べるだけでは信じられなくて、「これを見た」「こういうものを食べた」と書くと本当に見たり、食べたような気がする。本末転倒のようですが、特に二十代の頃はすごく細かく何でもかんでも書いていました。
小野 そういう鍛錬があったのですね。江國さんの描写ですごいなと思わされるのは、克明に書いているわけではないのに具体的な風景が浮かんでくることです。たとえば「アレンテージョ」のような乾燥した土地でも、『雪だるまの雪子ちゃん』の雪野原でも、あるいは東京を舞台にした作品でも、その光景が言葉から見えてくる。
江國 自分でも、ある光景を見せたくて仕方がなくて書いているので、そう言っていただくと嬉しいです。
小野 僕も物書きの端くれですから、すごく克明に書くのではなく、ミニマムでありながら読む人の心に直接届く文章はどうしたら書けるのだろうかと考えるのですが、ものすごく難しい。
書かないと見た気がしない、食べた気がしない、自分のものになった気がしないとおっしゃってられましたが、、江國さんのシンプルでありながら多くを伝えてくる文章は、自分が見ている世界、触れている世界を納得するために書くことをずっと続けてきたからこそ生まれたのですね。
江國 最初は何もかも言葉が先にあったんです。それは多くの人に言えることではないでしょうか。たとえば子どもの頃に実際に海を見るより先に「海」という言葉を知ったり、友情や愛みたいに抽象的なことになると、どうしても言葉が先に立って頭でっかちになる。私は極端にそういう子どもだったと思います。言葉が好きだったし、本が好きだったし、家族もよく喋る家だったので、聞きかじった言葉のイメージが先にあって、外に出てそれをひとつずつ確かめていくような感じだったんです。
今もずっとそうなのかもしれません。私にとって、現実よりも先に、概念やイメージ、自分が言葉で組み立てたものがあるんです。
子どもの頃はお菓子のパッケージの言葉を読むのが大好きでした。「とろりとしたクリーム」「香ばしいクッキー」のような箱に書かれた言葉を読むのが大好きで、実際に食べてみるとその言葉でイメージしたほど美味しいものではなかったんです。だからお菓子も食べるより読む方が好きでした。現実というのは言葉からイメージしたものほどにはよくない、という認識がずっとあるんです。
小説を書く時も、自分が行った場所を描写する時も、現実をどこまで描写できるかとは考えていなくて、その描写を読んだ時にどのくらい現実っぽいか、どのくらいイメージしてもらえるかを考えます。だから、全てを描写したら逆にイメージを結びにくくなると思った時は、なかったことにしたり、変えてしまうこともあります。だから、現実を優先させないことがポイントかもしれません。
小野 それが読者一人一人にすごくリアルな光景を立ちあがらせているのですね。
子どもに届けることの難しさ
小野 子どもの頃から言葉が先にあった、というお話をされましたけれど、江國さんは絵本も書かれているし、絵本についてのエッセイも書かれています。そのエッセイを読んでいると、僕なんかはいかに自分が絵本を読んでいない子どもだったかを思い知るとともに、読んだことがある本はもう一回読み直してみたくなります。
江國さんにとって児童文学を書くとはどのような体験なのでしょうか。子どもを読者として想定して書かれているのか、小説を書く時とは違う心の働き方があるのか。あるいは、児童文学を書くことの喜びと難しさについて、少し伺わせていただけないでしょうか。
江國 それは私にとっても、わかりにくい話なんです。
まず、何をもって児童文学とするかがことをややこしくしています。私は二十代前半の頃、まだ読んでいない児童文学の名作がたくさんあることに気づいて、子どもの本をたくさん読んだんです。
『若草物語』や『小公女』のような女の子向けの本は子どもの頃に読んでいたのですが、『海底2万マイル』や『トムソーヤ』のような主人公が男の子のものや冒険物は読んでいなかったんです。もちろん子どもの時に読んでいたらまた別のワクワクがあったんだろうけれども、二十歳で読んだからこそのワクワクもあるんです。
それから児童文学の名作というのは本屋さんでも強いんです。たとえば『くまのプーさん』はロングセラーとしてものすごい部数になっていて、今も本屋さんに行けば待っていてくれる。いいものがちゃんと残っている世界なんだと思いました。そうした子どもたちの目の確かさというのはいいなと思って、おこがましいけれどその世界に混ざりたいと思ったんです。
一方で、私はデビューから3冊目くらいまでは児童書の出版社から本を出させてもらっているし、児童文学出身のように書いてもらうこともあるのですが、私の本は子どもたちにそんなに届いていなかったと思うんです。
小野 確かに子ども向けというより、いろんな大人の世界を垣間見ることになった子どもたちの複雑な心境が書かれていますよね。
江國 実際は十代、二十代の人に読まれていて、そういう方がいい読者になってくださっていると思います。それはとても幸運なことなのですが、子どもに届けたい、児童書を書きたいという気持ちと、実際に書いているものが解離しているとは自分でも思っています。
子どもに届けるというのは、私がものを書いてきた中で一番難しいと感じてきたことです。やっと、もしかしたら少しは読んでもらえるんじゃないかと思えたのは『雪だるまの雪子ちゃん』や『ホテルカクタス』です。『ホテルカクタス』は児童書ではありませんが、子ども達にも読んでもらえるかもしれないと思っています。
言葉によって、ここではないどこかへ
小野 『雪だるまの雪子ちゃん』はとても面白くて驚かされました。野生の雪だるまの女の子が、人里に行っていろんな人達と交流していくという物語ですね。話ぶりがとても可愛いのですが、その率直さや唐突さが、文明と野生の対立など、文明社会にいる大人たちがあまり考えないような事柄の本質をついている。
『ホテルカクタス』も本当に素晴らしいです。ホテルカクタスというアパートに住んでいる「きゅうり」と数字の「2」と「帽子」の物語ですが、面白いのは数字の2という登場人物は、2なのに性格が割り切れないんですよね。2だから2つの選択肢のあいだでいつも迷って、全然割り切れない。
江國 でも2は2だから割り切れないことは嫌いで、彼は煮え切らないんですよね。
小野 それから「きゅうりはいつも体を鍛えていてみずみずしい」みたいな言葉も印象的でした。
江國 そうです、やっぱり言葉なんです。
『雪だるまの雪子ちゃん』は書き下ろしだったのですが、私は書き下ろしが苦手なんです。連載だと締め切りがきて仕方がない部分も少しはあるんですけれど、書き下ろしは基本的に終わるまで待ってもらえるので途中でやっぱり違うと思うと引き返してしまう。出だしのところですごく時間がかかって、なかなか先に行けない。
『雪だるまの雪子ちゃん』もやはり出だしでつまずいていたのですが、その時に「野生の」という言葉に出会ってから話が動いたんです。「そうだ、雪子ちゃんは”野生の雪だるま”にしよう」と思ってから書けるようになった。だから、徹底して言葉ありきなんです。
『ホテルカクタス』も全て言葉のトリックといえばトリックです。数字の2の両親は誰にしようと考えた時に、14と7が結婚して2人が割り算をしたので2が生まれたとか、足し算をしていれば21になるし、掛け算をしてれば……というのを書いたんです。もちろん思いつきですけれど、そうすると私の中では辻褄があうというか、すべての数字はそうやって生まれたのかもしれないと思ったんですよ(笑)。すると本当に自分でそれを信じてしまって、試してみると本当にたくさんの数字が生まれますよね。そうやっていけば全ての数字を生み出していける。それは自分にとって大きな発見だったんです。ただ、数字の2には兄弟もいるんですけれど、兄弟も全部2ということにしたんです。割り算が好きな夫婦だったんですね。
小野 夫婦なのに割り算というのがすごいですよね、普通だと足し算かなと思いますけれど。僕は駄洒落もあるのかなと思いました。上の兄さんと下の兄さんで2、3(笑)。
江國 私はそういうセンスがないんですよ。あったらもっと作品に幅が出ると思うんですけれど(笑)。
小野 単なるオヤジギャクですから江國さんにそんな幅は要りません(笑)。
江國 洒落のセンスがないんです。
小野 洒落のセンスはありますよ(笑)。僕が感動したのは、きゅうりが「僕の田舎にみんな来るといいよ」と言って里帰りする場面です。さすがきゅうりだけあって親戚兄弟いっぱいいるんですよね。僕はフランスの風景を思い浮かべましたが、大きな畑にたくさんきゅうりがなっているイメージなのかなと。
江國 そのイメージはあります。
小野 そんな彼らが「本当に必要なものは何だ」と議論を始め、最後には「我々には外国が必要なんだ、何よりも大切なのはここではない外国だ」という話になりますよね。江國さんのお仕事は、言葉によってここではないどこか、異質な場所をつくり出していると思うんです。書くことによってそういう場所へと読者を導いていく。
江國 そう思って書いています。ここではないどこかに自分でも行きたいし本の中にそれをつくりたい。本を読むことの魅力も、ここにいながらにして、ここではない場所に行くことができるということですよね。
児童文学は待っていてくれる
小野 書くことと読むこと、どちらかをやめろと言われたら、どちらをやめますか。
江國 書くのをやめます。
小野 え、やめないで(笑)。
江國 読まずに書くばっかりなんて地獄です。絶対に無理。それはやはり読む方が優先です。
小野 これは個人的な興味ですが、やはり毎日書かれますか?
江國 毎日書きます。旅行に行っている時や、丸一日出かけてしまう時は書かないことはありますが、普段は必ず書きます。
小野 旅行に行って書かない日はあっても、読まない日はないんですね。
江國 ないです。
小野 常に読まれているんですよね。
江國 はい。楽しみのためが多いですけれど。
小野 僕は、江國さんがたくさんのものを読まれていることが、書くことに連動しているという印象を受けています。江國さんくらい世界の現代文学とともに世界の児童文学を読み込んでいる方はなかなかいないと思うんです。
江國 児童文学を読んでこられたことはとても幸運で、自分にとってすごくプラスになっていると思います。意識して読んだのは大人になってからで、今でも名作なのに読んでいないものはたくさんあります。でも、それをこれから読めることは嬉しいことだし、常に「待っていてくれる世界」だと思うんですね。学生さんたちも読んだことがない子どもの本や絵本をこれからたくさん読まれたらいいなと思います。
小野 「まだ読んでいない」と考えるのではなく、「これから読めるぞ」と考える。それだけで、世界との対峙の仕方が変わりますね。
江國 待っていてくれるし、あるいは前に読んだ本でも久しぶりに読み返すと、しばらく来なかったけれどずっと待っていてくれたんだな、という感じがします。絵本は版型も大きくて画もあるから、活字だけの本と違って空間的な広がりもあるので余計にそう思います。
小野 江國さんは2013年に講談社の青い鳥文庫から『青い鳥』(モーリス・メーテルリンク著)の翻訳を出されましたが、これは本当に江國さんにぴったりだなと思いました。どうしてかというと、『きらきらひかる』でも主人公の恋人の名前が「紺」であるように、まず、「青」は江國さんの作品のいろいろなところで重要な役割を果たしているからです。それから「小鳥」も江國さんの仕事を考える上でのキーワードで、『ぼくの小鳥ちゃん』はタイトルからしてもちろんですが、たとえば『真昼なのに昏い部屋』でも小鳥が出てくるし、 江國さんの作品の中で重要な役割を果たしていると思うんです。そこで伺いたいのですが、なぜ「青い鳥」を訳そうと思われたのですか。
江國 そもそもは依頼をいただいたからですが、それをやりたいと思ったのには理由があります。『青い鳥』はもともと戯曲だからト書きと台詞しかないので、青い鳥文庫ではそれを物語にしなくてはいけないんです。そこに燃えました。私にとってチャレンジになると思ったのでやってみたいと思いました。
私は売られた喧嘩は買いがちな性格で、この仕事も売られた喧嘩を買うように引き受けました。青い鳥文庫なのに『青い鳥』がずっと品切れ重版未定だったことにも憤りみたいなものがありました。なぜ自分がやるのかわからないけれど、「そりゃ、やるさ」みたいな気持ちになってやったら面白かったです。
小野 外国語で書かれた、台詞だけの作品を物語にしていく過程は、自分で小説を書く時の作業と似ているところはありますか。
江國 会話以外の部分は創作しなくてはいけないので、似ていると思います。でもお芝居のために書かれたものですから、舞台だったら役者さんが出てくればわかるんですけれど、チルチルがどんな顔でどんな服を着ているとか、そういうことは一切書いてないので、そのままだと男の子である、女の子であるという以外に個性が見えない。
それでは物語としては破綻してしまうし、面白くないので、「チルチルはしっかりした性格のお兄ちゃん」といった設定をつくったのですが、それは矛盾したりもするんです。しっかりしたことを言う時もあればそうでない時もある。妹も最初はすごく妹らしく小さくて泣き虫みたいな感じなんだけれども、後半ではお兄ちゃんよりしっかりして、なかなか一筋縄ではいきませんでした。でも、創作する部分があったから普段小説を書くのと少し似ていました。
(会場ではこの後、江國さんによる自作「生きる気満々だった女の子の話」(初出「小説現代」[2014年11月号]、『100万分の1回のねこ』[講談社、2015年]所収)の朗読を行っていただきました)
言葉はどうやって選ばれていくのか
小野 終了の時間が近づいてきたので、会場から質問を受けつけたいと思います。
学生1 江國さんは言葉にこだわりがあると思うのですが、作品を書く時にどうやって言葉を選んでいるのでしょうか。それから、どれくらいのスピードで書いているのでしょうか。たとえば新聞を読み上げるようなスピードで書くのか、一文一文考えているのかを教えてください。
江國 どのくらいのペースで書くのが普通なのかわかりませんけれど、書くスピードは遅いと思います。何をするのも遅いんです、はい。
小野 江國さんは手書きで書かれていると以前どこかで聞いた記憶があるんですけれど、今も手書きですか?
江國 コンピューターを使えないものですから、今も原稿用紙に手書きです。小説だと、毎月締め切りがあって、書こうと思ってから書き始めるまでに2日くらい原稿用紙の前にいるのに書けないという時間があったりもします。書き始めてから調子がいいと1日に400字詰めで5枚くらいです。調子が悪かったら果てしなくかかります。なので多分遅いほうだと思います。
言葉をどうやって選んでいるかはわからないな。でも、「この言葉は嫌だな」と思って別の言葉を選んでいくことが多いから、消去法が多いですね。最初から「これしかない」というのではなく、たとえば「閑散ではなく荒涼かな」とか、「悲しいではなく、切ないではなく、寂しいではなく、なんだろう……」みたいに、選んでいく時は否定が先かもしれません。
でも、書く仕事ではない人にも好きな言葉とそうではない言葉というのはありますよね。妹とよくそういう話になるのですけれど、洋服の色を言う時に、今日のズボンだったら「かぼちゃの皮色」と言ったりするんです。「カボチャ色じゃなくてカボチャの皮色でしょ、かぼちゃは黄色いんだから」とか、同じ赤でもトマト色とりんご色といちご色は違っていて、イメージも色自体も違うから、「これはトマトではなくりんご色のセーターだ」と言ったり。そういうことは誰でも日々の中にあるはずですよね。私はそういったことに書く時だけでなく暮らすうえでも妥協したくないんです。だから、揚げ足とりをするつもりはないんですけれども、私がそういうことを言うと、知らない人は責められたように感じることもあるかもしれません。
学生2 江國さんの言葉を通して、登場人物や風景の色、温度ややわらかさを想像して作品の中に入り込むのがとても好きですなのですが、江國さんが今まで出会って素敵だなと思った少女や女性像のお話を聞かせていただけないでしょうか。
江國 それは難しいぞ(笑)。私は今は、少女というものがすごく好きです。特定のこの子やあの子ではなく、少女というものですね。でも書き始めた頃は少女というものが怖かったんです。小さい女の子を少女と呼ぶのであれば、自分もかつては少女だったわけですが、二十代の頃は少女というものが少し怖かったんです。なぜかというと、少女というのはとても「女度」が高いというか、ものすごく女っぽいものだと思うんです。自分の記憶でもそうですし、年齢が一桁だったころ、9歳、10歳くらいの女度の高さは我ながら感じが悪かったと思うので、自分がそこから出ると、少女というものが怖かったんです。でも今は少女というものをものすごく魅力的だと思っています。そして、ここにいる学生さんたちくらいだとまだ少女に見えます(笑)。
学生3 登場人物の名前について伺わせてください。江國さんの作品を読んでいると、登場人物の名前が、自分のイメージする人柄に名前がぴったりだなと感じます。そこで、名前を先に付けるのか、それとも後から付けるのかということと、登場人物へのこだわりやイメージのつくり方などを教えてください。
江國 名前は大事だと思っています。名は体を表すから大事だと思っているのですが、どうやって決めているかというと先ほどの言葉の選び方と一緒で消去法になります。この名前の人を書こうとか、この登場人物はこの名前だと思っていることはまずなくて、これはどうかあれはどうかとやっていって、「あ、これなら大丈夫、許容範囲だな」と決めるんですね。
そうやって最初はある登場人物を考えて、名前はこれでもない、あれでもないと選ぶんですけれども、一旦決めて書き始めてからは、その名前だからこそそのように書きます。たとえば「かおり」という名前の人物は書いたことがありませんが、「かおりという名前の人間はこういう言い方はしないかもしれない」「かおりだったらこう言うかもしれない」ということはよく考えます。良くも悪くも言葉に縛られがちなんですね。すると今度は名前が小説に影響してくるので、相互作用になるんだと思います。
行き詰まった時は、異物を投げ込んでみる
学生4 今、創作活動でとても行き詰まっています。私は小説を書く時は「この場面を書きたい」というのがいくつか出てきて最終的につなげてひとつの作品をつくるというやり方でしか書いたことがないのですが、江國さんはいつもどのように創作を進めているのでしょうか。そして、どうしても行き詰まってしまった時の解決策のようなものがあれば教えていただけないでしょうか。
江國 どうやって書いていくかはいつも一定ではなく、短編と長編で違ったりしますけれど、おっしゃったことはすごくわかります。私も書きたい場面がいくつかあって、それを繋いでいくように書くことは多いです。私は「見せる」ことをすごくしたいし大事だと思っていて、あらすじはあまり大事じゃないと思っているから、それは結構いい方法だと思っています。
あらすじはあまり重要ではないということで言えば、たとえば「いつかずっと昔」という短編があります。それはリンカーネーション(輪廻転生)の話で、一瞬の間に前世を辿っていくのですが、それを書いたのは、夜桜を見て、その妖しくて綺麗な夜桜を描写したかったというだけの動機でした。だからそこで起こることよりも、読んだ人がその夜桜を見た感じがしてくれたらと思って書いたり、場面をつなぐという書き方はよくします。
でも先ほど少し言ったように、ある場所に人がいて時間が流れると小説になると思っているので、最近は長編の連載では特に、場所と人をすごく考えて、そこにゆっくり時間を流すように心がけています。場所と人をつくって時間を流すというのをよくやります。
長編の場合は結末やどんな事件が起きるかは考えないことのほうが多いです。書きながら一番自然なように書きたいと思っています。しっかり書いて設計図をつくる方もいらっしゃるけれども、私はむしろ小説が始まる前のこととや、登場人物の過去、たとえば20歳の子が出てくるとしたら、生まれてから19歳までのことを考えて決めて、あとはその場所にその子を放つ感じで書きます。
小野 行き詰まった時のことも聞かせてください(笑)。
江國 行き詰まった時の解決策というのはなくて、私が知りたいくらいですけれど(笑)。ただ、私は割と単純なので、今書こうとしているものと関係ない場所に行ったり、本を読んだり映画を見たり、外食したりすると何か見つかることが多いですね。明日が締め切りなのにどうしても小説が動かなくなった時は、乱暴ですが一旦とんでもない異物を小説の中に持ち込むということをしたりもします。つまり、この人たちにこうなってほしいとか、こういう場面を書きたいと思っていたとしても、それ以外のものをいきなり入れるんです。荒療治ですけれども7割は動くようになります。池に石を放り込むような感じです。
学生4 その異物はそのまま残して進めるんですか。
江國 入れてしまった以上は消せないからそのままです。でも意外にいい。言い訳のように聞こえるかもしれませんが、実際の人生もそんなに望むようにならなくて、意外なことやどうでもいいことが起こるじゃないですか。だから異物といってもそんなに大きな事件でなくていんです。宅急便屋さんがくるとか、その宅急便屋さんがハンサムだったということにしたらどうだろうとか、別にハンサムなだけでその後どうなるわけではなくてもいいと思います。
あるいはまったく思いもかけないこと、たとえば隣の家が火事になって、それを一心に描写してそれがもしうまく行ったら、小説になにかのリアリティが生まれることもあります。だから本当に動かなくなってそれでも動かさなくてはいけない時は、かなり乱暴ですけれども石を投げるみたいに何かを落とすというのも手でした。
外国人の目で日本語を見たい
学生5 外国に住んでいた経験は場所を描くのに非常に有利に働くと思うのですが、もっと細かい表現や語彙という言葉のレベルで、日本語だけでなく外国語の感覚があることによって、表現に変化が起こるということはあるのでしょうか。
江國 それは絶対にあると思います。最初に言った、言語と人格が結びついているということもありますが、もっと具体的に言えば、私は小説を書く時の日本語が多少英語的なんです。主語と動詞がはっきりしているし、日本語にない英語の冠詞みたいなものを使いたがります。英語で名刺の前にaやtheのような冠詞やそれに代わる形容詞──赤いとか可愛いとか──を入れるようにそういうことをしたがるし、onやinのような前置詞──「上に」「下に」「横に」といった言葉──をよく使います。herやhisのような所有格も使います。うっかりすると「彼女は彼女のカバンを持って」と書いてしまうくらい英語的だと思います。
書く時に、自分が普段使っている言葉のように日本語を扱いたくないんです。金井美恵子さんが「ものを書く人間は母国語を外国語のように扱わなくてはいけない」と書いていらしたのですが、本当にそうだと思います。少なくとも普段家で妹と喋っているように書くのではなく、知らない言葉を扱うように書く。外国人の目で日本語を見たい。だからかじるだけでもいいから母国語以外のものに触れたり、あるいはその土地でその人の言葉を聞く経験をしたりという小さなことが、すこしずつプラスに働くはずだと思っています。