文芸・思想専修はどんな場所ですか?

小野 我々は毎日いろんな体験をしていますが、それをきちんと言葉で表現するのはむずかしい。自戒を込めて言いますが、日常生活でも社会的な問題でも文学や芸術に関わる経験でも「面白かった」「大変だった」「深く考えさせられる」みたいな紋切り型に流し込んで、それ以上何も考えないで済ますことは多いですよね。

けれどもそこでなぜか流れず、心に引っかかり続ける─しかし簡単には言葉にできない─ものを、他者に伝わる形で表現したのが文学であったり芸術であったりする。他者のそうした表現から学び、自ら考え、自ら表現する術を身につけていく場所が文芸・思想専修ではないでしょうか。

林みどり まったく同感で、個人が感じたことを言葉にしていくワークショップの場が文芸・思想専修だと考えています。この専修では一年生の時から少人数の演習がありますから、他者の言葉を前にして、自分の言葉を紡ぎ出していく訓練を徹底してやるんです。それは結果として論文や創作になったりしますが、大事なのはそこに至るまでのプロセスです。

作品が作者個人の実人生に根ざしたところから生まれるように、それをどう読むかということも、読み手がそれまでに体験してきたことや背負っている人生に拠るわけです。自分が読み飛ばしていた部分を、隣の席にいる人がその個人的な体験をもとにまったく別の着眼点で読んでいたりする。だから、一人で読んだのではここまで広がらないという議論が、演習という公共空間では起きます。

我々教員は、既にある文学や芸術作品、思想を参照しながら、学生が自分の体験を振り返って考えるための言葉やものの見方を提示して、一人ひとりが新しい表現を生みだしていくのを促すのが仕事だと考えています。


ご自身はどうして文芸や思想の道に進んだのですか?

小野  大学の時に素晴らしい先生や友人たちに出会い、たくさん本を読むことができたのが大きいと思います。九州は大分の過疎の漁師町育ちで、高校までは部活なんかが忙しくて本はあまり読んでいなかったし、文化的なことや知的なことに興味はありましたが、そうしたものから限りなく遠い環境でした。

大学に入って、友人の影響で大江健三郎を読むようになったり、ある先生から「小野みたいな地縁と血縁が濃い田舎から出てきたやつはこれを読むと面白いんじゃないか?」と薦められて中上健次を読むようになったり、そんなふうに芋づる式に読んでいきました。講義や演習で紹介される本を読むのも楽しかったですね─「自分は無知だ」と知ることには、解放感を伴う驚きがあり、それが知的な欲求をかき立てる。当時は海外文学の紹介・翻訳に勢いがあって、柴田元幸先生や沼野充義先生の仕事を通じて、海外文学に自然と親しむようになっていました。

修士課程ではミシェル・フーコーという哲学者の研究をしたのですが、やっぱり文学が好きだったのか、気づくと創作もしていました。その頃、フランス思想が専門の西谷修先生から、カリブ海のフランス海外県の現代文学について教えてもらい、その代表的作家であるパトリック・シャモワゾーという小説家の作品を取り寄せて読んだら、ハマったんです。「こういうデタラメだけど愉快な、そして悲しいおっちゃんやおばちゃんがいる世界は、まるで僕の田舎じゃないか!」と感嘆し、研究テーマを変えて、カリブ海のフランス語圏文学を研究することにしたのです。

林みどり 私は高校生の頃に「流浪」というテーマに関心があり、大学ではエルネスト・サバトというイタリア系作家のことを勉強してアルゼンチンに興味を持ちました。それでブエノスアイレスに留学したのですが、そこで出会った友人の親や祖父母がほぼ例外なくみんな“外国”出身で、スペイン人やイタリア人だったり、ウチナンチュ、ユダヤ人、ポーランド人だったりすることに衝撃を受けました。またちょうど軍事独裁政権の崩壊後だったので、メキシコ、フランス、イギリスなど、世界各地に亡命していた研究者が帰国していて、彼らと近しく付き合うようになって、そうしたことから国や言語の境界を“越境”していく人々に関心を抱くようになったんです。

ある時ヨーロッパ思想史が専門の上村忠男先生から、パレスチナ出身の亡命知識人の思想家エドワード・サイードの本を薦められて、越境や亡命といった人々の移動と、植民地主義やナショナリズムなどの生々しい諸問題が結びついていて、文学や芸術の表象活動と切り離せないことを学びました。その結びつきのダイナミズムを読み解くことによって、社会科学的なフレームからこぼれ落ちていくものを捉えることができる。文学と思想が重なり合う場において初めて、経済学や社会学、政治学では見えてこないものが見えてくる。そのことに気づいたんです。

文芸・思想を学ぶことは、社会でどんな役に立つのでしょうか?

小野 「コミュニケーション能力」や「文章力」の重要性が盛んに言われますが、そこではおそらく、単に情報伝達の手段としてではなく、相手のことを理解する想像力や状況を的確に把握する分析力を養い、自分の考えを明晰に構築・表現するための言葉が求められているのでしょう。

林みどり コミュニケーション能力は「話す力」のように言われるけれど、それは「聞く力」があって初めて成立するものです。一冊の本に向き合ってそれを精読することは、その背景にある数十冊ではきかない書物や、テキストの外側にある言説や社会というものを考えることでもある。そういう訓練は当然、相手の言おうとしていることを聞く力を養うトレーニングになります。文芸・思想専修はそうやって「読む」「考える」「創る」ことを訓練する場なんです。

小野 文学に限らず、マンガでもアニメでも音楽でもアートでも、優れた作品は言葉による思索と不可分です。作り手自身がそこに底流する思索を言葉にすることもあるし、批評という形でそこから言葉が紡ぎ出されたりもする。人間の思考は言葉でできていますから、言葉からは逃れられない。自ら考える力を鍛えるために、本─他者の練り上げられた思考・言葉─を読むことは最良の訓練だと思います。

林みどり 読んだら面白いものばかり揃えて待っています。少しむずかしいけれど、それを読むことで新しい世界に触れられるようなもの。

小野 良い本は読んだあとも体のなかに残り、後々の人生まで運ばれ、ずっと我々とともにあります。それは生きていく知恵と力になります。