アントロポスからフマニタスへの働きかけ

福嶋 先ほどおっしゃった「主体としての人間」なんですが、これはマックス・ヴェーバー的な主体、つまり自己反省し自己管理しながら勤勉に労働する主体として捉えていいのか、それとも違うタイプのものでしょうか。

西谷 いや、もう少しヘーゲル的に、関係的に捉えてください。

福嶋 あるいはフーコーで言えば、経験的=超越論的二重体としての「人間」というモデルがありましたね。これと近いでしょうか。

西谷 そっちのほうが近い。要するに、世界を対象化することによって自己同定し、自分がこの場で知と行動の為し手として振舞う。それが主体としての人間ということだと思います。フーコーはそのことを言っていると思いますが、それを主体の位置から言えば、ヘーゲルの基本的な弁証法の構造になりますね。ヘーゲルは思考をはっきり「自覚」というふうに、つまり自己反照の成就と言っていますから。

福嶋 フーコーが『言葉と物』のエピローグで、砂浜に書いた字のように「人間」は滅びていくだろうという話をしていたと思いますが、それは西谷さんの図式で言えば、フマニタスもやがて砂浜に書いた字のように消えていくということなのか、それとも、また別のやり方で再起動していくという可能性はあるのか。そのあたりはどうでしょうか。

西谷 人間中心主義というのは機能しなくなる。それはそうだとしても、われわれが人間であることをやめられるか? そこが問題ですね。哲学はそれを受け容れるかもしれない。しかしそうすると善の探究ではなくなる。私としてはむしろ哲学に年季が来ている、もう自分が切り開いてきた認識の地平を見失ってしまっていると言ったらいいでしょうか。でも、それは最近のことで、どこでどう見失ってしまったのか、いつから足場が消えてしまったのか、それは確かめる必要がある。

福嶋 西谷さんとしては、フマニタスという人間像が世界に害悪をもたらしているとお考えでしょうか。

西谷 それは世界のエボリューションの一過程なんだと思います。西洋の近代に生まれたフマニタス・モデルは普遍化しようとしたけれども、それには障碍があった。それに無自覚なままフマニタスを押し通そうとすると全世界が破綻する。そしてポスト・ヒューマンとか言われる奈落に落ち込んでゆくことになる。ポスト・ヒューマンというのはフマニタスの夢なんですよ。だから、フマニタスがアントロポスとして扱ってきたものとの関係を再調整していかないといけない。

福嶋 フマニタスとアントロポスの再調整こそが重要であるということですね。

西谷 相互関係の中でそうなっていくしかない。異物との関係をどうするか、ということですね。なっていかなかったら破滅するでしょう。

福嶋 例えば、大学の人文学から送り出している人間は、理念的にはフマニタスということになると思うんですけれども、そういうことではないでしょうか。

西谷 でも、フマニタスには成りきれない。亜種ですね。しかし、そこに可能性がある。例えば、今度、上田信さんが提案してくれて、立教の人文カフェというイベントで、人文学について話すのですが、それはフマニタスなんですね。全世界はこれまで、基本的にフマニタス化を要請されてきたわけです。それは受け入れていっていい。けれども、そのフマニタスがいま足場を失っているとしたら、その足場を支えるのは、フマニタスが自己に還元しようとして同化しきれなかったアントロポスの部分なんですよ。だからわれわれは亜種でいい。その亜種がフマニタスを矯正すればいい。今、全世界の編成の流れはフマニタスの全体主義になっていますが、アントロポスとして扱われてきた我々としては、その異物性を持ち込んでいって、フマニタスのあり方を変えてゆく。

福嶋 ただ、引っかかるのは、例えばアメリカはビン・ラディンのような奴は暗殺してしまえといって、かなり乱暴なことをやるわけです。その場合のアメリカ人というのはとても理想的なフマニタスと思えない。だとすると、そうしたアメリカ人も多少は文明化してもらわないと困る気もするのですが。

西谷 いや、アメリカというのは根を切って純粋化したフマニタスなんです。生成過程を全部切り捨てて、それで成り立っていると思っているから、倒錯している。だから「異形の制度空間」ということです。フマニタス自体は変化していって当然のものでしょう。フマニタスが歴史的にすべてネガティブかというと、そうではありません。例えばクレオールがそうだけれど、我々は過去を全部清算するわけにはいかないんです。クレオールというのが自己肯定できるようになるためには、あるいは自己肯定せざるを得なくなるためには、西洋世界による圧倒的な植民地支配というのがあったけれども、それをないことにはできない。その否定の暴力の不慮の副産物として―意図的な産物は植民地産業です―自分たちが生れたわけですから。どうやってそれを引き受けて、その上に自分たちの自立性を確立していくかというのが、クレオールの問題だったでしょう。

福嶋 確かに。

西谷 ルジャンドルが引用した私の論文のタイトルは「西洋的人間の二つの概念」(2004、 “Deux Notions Occidentales de l’Homme: Anthropos et Humanitas”,  Alain Supiot eds., Tisser le Lien Social, Paris: Edition de la Maison des Sciences de l’Homme. [=2006, “Anthropos and Humanitas: Two Western Concepts of ‘Human Being’”, Naoki Sakai & Jon Solomon eds., Traces 4: Translation, Biopolitics, Colonial Difference, Hong Kong: Hong Kong University Press. 初出は2001、「ヨーロッパ的〈人間〉と〈人類〉」樺山紘一編『20世紀の定義 4─越境と難民の世紀』岩波書店])というものですが、フマニタスとアントロポスというのは両方ともあくまで西洋的概念であって、我々はそんなふうに自己規定したことはなく、向こうから来たわけです。クレオールと同じように、西洋によってアントロポスとして扱われてきた人たちは、その関係を自分たちがフマニタスと思っている人たちに自覚させてゆく。自覚というのは、気がつかなかったことに気がついて自分が変わることですから、変えていく。そうすると、西洋的なこの区別の自覚というのは、相互の関係を変えていくはずです。どれほどかかるかわからない。その間にもポスト・ヒューマン化は驀進していますから、とても間に合わないかもしれない……。

福嶋 フマニタスのクレオール化も考えられる……。

西谷 とも言えますが、グリッサンがグローバル化に対してクレオール化を掲げました。それは関係性の視点ということですね。フマニタスも一地域のある時代にある関係性のなかから形成されてきた。その関係性のあり方をクレオール化といったわけです。ただ、そのことに我々も客観的には関与できない。自分たちがどういう位置に、立場にいるかということからしか見ていけないから。自分たちと、それに「対して」という形で存在しているものと、その両方の上に立って見るというより、やはり働きかけと相互作用しかないと思います。

福嶋 クレオールに引き寄せて考えてみると、例えばエメ・セゼールはフランスで勉強し、ヨーロッパ文学を引き受けて、故郷に帰った時にはその経験が『帰郷ノート』のような作品として結実していくわけですよね。ああいう雑種的なあり方は、その「相互作用」の一つのモデルになり得るでしょうか。

西谷 彼も歴史的モデルで、そうでしかありえなかった世代というのがあるわけです。それを経てグリッサンやその後の人たちが出てくる。だから、エメ・セゼールがモデルになるのでもなければ、否定されるのでもなく、彼らの経験の上にしか道は開けなかったということでしょう。